院長ごあいさつ
みなみ野グリーンゲイブルズクリニック
院長 桑江千鶴子
みどり美しいみなみ野の土地に、産婦人科医院を開業いたしました。お産と手術、産後ケアと育児支援をはじめとして女性の人生すべてにおいて、健やかに過ごせるようにスタッフ一同寄り添い支えていくつもりです。自宅でご家族と過ごしているような暖かく、質の高い医療をめざします。どんなことでもご不安があったら気軽に来院してください。
- プロフィール
- 1977年3月
信州大学医学部卒業
2002年
前 東京都立多摩総合医療センター産婦人科部長
2002年
東京医科歯科大学産婦人科臨床教授
2018年6月
みなみ野グリーンゲイブルズクリニック 開院
- 日本産科婦人科学会専門医
日本臨床細胞学会 細胞診専門医
日本婦人科腫瘍学会専門医(再審査請求中)
母体保護法指定医
医師紹介
- 佐藤深雪先生
- 産婦人科専門医
- 秋田大学医学部卒
- 武蔵野赤十字病院緩和医療科
- 日本産科婦人科学会専門医
- 本多泉先生
- 産婦人科専門医
- 群馬大学医学部卒
- 都立病院機構多摩総合医療センター産婦人科医長
- 日本産科婦人科学会専門医・指導医
- 日本周産期新生児学会母体胎児専門医
- 日本女性ヘルスケア学会認定医・指導医
- 中村浩敬先生
- 産婦人科専門医
- 鹿児島大学医学部卒
- 都立病院機構多摩総合医療センター産婦人科医長
- 日本産科婦人科学会専門医・指導医
- 日本婦人科腫瘍学会専門医
- 日本産婦人科内視鏡技術認定医
- 日本がん治療認定医
- 馬場慎司先生
- 産婦人科専門医
- 群馬大学医学部卒
- 都立病院機構多摩総合医療センター産婦人科医長
- 日本救急学会専門医
- 日本産科婦人科学会専門医・指導医
- 日本周産期新生児学会周産期専門医
- 日本婦人科腫瘍学会専門医
- 三田俊二先生
- 産婦人科専門医
- 日本医科大学医学部卒
- 多摩南部地域病院婦人科部長
- 日本産科婦人科学会専門医
- 日本臨床細胞学会婦人科専門医
- 日本婦人科腫瘍学会専門医
- 日本がん治療認定医
- 武内務先生
- 産婦人科専門医
- 日本医科大学医学部卒
- 多摩南部地域病院婦人科医長
- 日本産科婦人科学会専門医
- 津久井(灘)理恵先生
- 小児科専門医
- 産業医科大学医学部卒
- 日本小児科学会専門医
- 林田道子先生
- 麻酔科専門医
- 東京女子医科大学医学部卒
- 元山王病院麻酔科部長
- 日本麻酔科学会専門医・指導医
- 末松美和先生
- 麻酔科専門医
- 秋田大学医学部卒
- 至誠会第二病院勤務
- 日本麻酔科学会専門医
- 近藤昌敏先生
- 小児科専門医
- 香川医科大学医学部卒業
- 同大学院卒業
- 小児総合医療センター副院長
- 日本小児科学会専門医
- 日本周産期・新生児学会専門医
- 日本小児栄養消化器肝臓学会認定医
- 岡崎薫先生
- 小児科専門医
- 香川医科大学医学部卒業
- 東邦大学大学院卒業
- 小児総合医療センター新生児科部長
- 日本小児科学会専門医
- 日本周産期・新生児学会専門医
- ICD(インフェクションコントロールドクター)新生児蘇生法インストラクター
- 藤田基資先生
- 小児科専門医
- 防衛医科大学医学部卒業
- 小児総合医療センター医員
- 日本小児科学会専門医
- 日本周産期・新生児学会専門医
- 水口卯生子先生
- 小児科専門医
- 群馬大学医学部卒
- 小児総合医療センター勤務
- 小児科専門医
- 周産期・新生児専門医
- 黒田淳平先生
- 小児科専門医
- 小児総合医療センター勤務
- 周産期・新生児専門医
- NCPRインストラクター
- 山口美穂子先生
- 小児科専門医
- 山梨大学医学部卒
- 小児総合医療センター勤務
- 周産期・新生児専門医
- 小児内分泌代謝専門医
私たちが大切にしていること(理念)
- 暖かみのある木造建築の空間で、
妊婦さんが快適に過ごせる
充実した設備を揃えました。
- 医師・助産師・看護師が連携を取り、
妊娠・出産への不安を取り除きます。
- 患者様の様々な悩みを、
産婦人科の臨床最前線で培った
技術と経験で親身にサポートします。
どうして「グリーンゲイブルズ」クリニックなの?
桑江院長の生い立ち
三人姉妹の次女として生まれる
千葉県の東京にやや近いベッドタウンに、3人姉妹の次女として生まれる。
父は旧国鉄職員で両親を早くに亡くして苦労して兄弟を育てた。祖父は外科医であったが51歳で死亡。私の実家は経済的には豊かではなかった。3歳違いの姉の上には2年前に男の子が生まれたが、戦争中で早産であり生後2週間目に亡くなった。そのために私は男の子を希望する父には「なんだ。女の子か!」という存在として誕生したらしい。父は名前もつけてくれず、母が自分の親友の名前をつけてくれた。という話をされたときのがっかりした気持ちは今でも覚えている。妹の時はあきらめたらしく父が名前を考えたということだ。
母からの教え
母は、友達や近所の人が優越感にひたって息子の自慢をすることを、常に愚痴として話してくれた。将来息子の世話になることが当たり前だった時代の話である。自分たちの老後の心配を常にしていた。
父は娘には高等教育を受けさせれば十分という考え方の持ち主で、銀行にでも就職して結婚したら専業主婦になるのがいいだろうという程度の期待であった。母はちょうど自宅を買ってそのために、外で働き始めた。手に職がないので、低賃金の仕事しかなく、私たち姉妹には、自分の苦労から手に職をつけるように言い聞かして育てた。その結果、姉はピアノの教師、妹は薬剤師になっている。私も母親の期待を胸に刻み込まれた。経済的自立について母の影響が大きい。
赤毛のアンとの出会い
小学校低学年の時に、アンに出会った。大好きになって「赤毛のアン」「アンの青春」「アンの幸福」のアンシリーズは村岡花子さんの訳で数えきれないほど愛読した。ほとんど暗記している。みなしごという不遇な身の上にもかかわらず自然豊かなアヴォンリーで、村の人々に愛されて才能と努力で幸せをつかんでいくアンの姿にどれほど励まされたかわからない。
それであたしが孤児になってしまったもんで、
どうしたらいいかみんな困ってしまったってトマスの小母さんが言ったわ。
ねえ、そのころでさえ、だれもあたしをほしがる人はなかったのよ。
気持ちが沈んだ時やつらい時にはいつもアンがそばにいてくれた。本を読むと前向きになれて、がんばろう!と思えた。血のつながらないアンを見守り愛情深く育てたマリラやマシュウ、村の人々の存在は子供を育てる時に大切なものは何かということを教えてくれた。「赤毛のアン」は私の心の支えであった。これが名前の由来である。