今回の事業を始めるにあたり、どうしてこれを始めようと思ったのか、については、自分の人生の大部分を語ることにもなり、長くなると思いますし、その時間も無いと思うので、文章にしました。お時間のある時に読んでいただけたら嬉しいです。
自己紹介です。
3人姉妹の真ん中ですが、私が産まれた時、男の子が欲しかった父は、がっかりして名前も付けてくれなかったので、母が親友の名前をつけてくれたそうです。小さい頃から可愛くない女の子は生き難いことを感じていて、コンプレックスを感じて育ちました。
アンとの出会い
小さい頃から「赤毛のアン」「アンシリーズ」は、私を励ましてくれた愛読書です。おそらく何百回も読んでいると思いますし、村岡花子さんの訳で、ほとんど暗記しています。それが今回自分の医院に、アンを中心に据えようと思った動機です。「誰からも欲しいと思われたことがない」アンが、自然豊かなアヴォンリーで、愛情豊かに育てられることで、自分の才能を開花させていく姿は、私を大層励ましてくれました。私にとって、「赤毛のアン」は愛読書以上のもので人生の指針です。
それでも、女性であるというだけで生き難くて、「24歳までに結婚して子供を二人産んだら、その後は?」と考えても、その先が見えないのです。そんな時、高校2年生の時に新聞に小さな記事が載りました。アメリカ、ニューヨークで女性だけのデモの写真があって「女はみんな美しい」と書かれたプラカードを持って行進していました。それを見た時に、目の前がパッと開けたような気がしたのを、昨日の事のように覚えています。ウーマンリブ運動、女性解放運動の始まりでした。
産婦人科医をめざす
それから、そうか、自分の人生は自分で決めていいんだ、と思い、経済的に自立できること、を最大の目標にして、医者を目指したのです。誰かに必要とされたい、と言う気持ちもありました。医学部に進学したら、女性は男性より劣っている、なぜなら脳が小さいから、とか、出産や子育てをする女医は所詮男性の医者より劣る、と言う意見が臆面もなく語られる時代だったのです。女医は体力がないから手術は無理、と言われて、実際、大学の外科では女医は執刀させてもらえていませんでした。
それなら、女性の身体を勉強しよう、本当に生物学的に女性は駄目なのか、勉強することで自分なりに答えを出そう、と思って産婦人科を選びました。その前に2年間病理に行って解剖や細胞診を勉強しています。産婦人科に行ったら、そのころは、やはり男性医師が女性よりも優秀だという神話に満ちていました。でも、関連病院で癌の手術を執刀した部長ができなくて、「手を下してください」と言われて執刀医を外された事件がありました。癌が切れなかったらそんなみじめな目にあうんだ、と思ったので、手術で自立しなければだめだ、と強く思ったのです。
女性でも手術をさせてくれるところ、癌の手術ができるところ、ということで現在の都立多摩総合医療センター、そのころは都立府中病院と言いましたが、に行かせてください、と教授に頼み込みました。
それからは、とにかくたくさんの手術をしなければ、決して独り立ちはできないので、手術室にこもる日々が続きました。進行した癌の患者さんを「ネバーギブアップ」の精神で抗がん剤と手術を駆使して治そうと、癌と闘う日が続きました。手術室は実力勝負の場所なので男も女もありません。ある意味では平等なので気に入ってもおりました。
結婚
夫は、学生時代の同級生で、理学部の物理科の学生時代からの付き合いですが、私を理解してくれて多大な協力をしてくれております。子供がいたら常勤医は無理、という私を「僕が見るから」と言って、説得し、2人の子供も授かりました。
しかし、子供がいて、産婦人科の臨床の第一線で働くのは、一言では言えないほど大変なことでした。夫、私の母親、夫の母親、と本当に運がいいことに、周囲の支えがあって、ようやく働いて来られましたが、「ゆっくり座ってコーヒー一杯飲みたいな。」というのが最大の願いであった時期が長く続きました。職場でも家でも、座る暇がありませんでしたから。
当直が少なくても週に1回あって、翌日も夜8時9時まで帰れません。家にいても担当患者が急変したら、呼び出されます。子供の誕生日でケーキにろうそくを立てて、吹き消そう、というその矢先に、呼び出しの電話が鳴ったこともありました。翌日、遠足でお弁当を作らなければならない時に、夜中の2時3時に緊急手術に呼び出されて、大急ぎで帝王切開をして、とんぼ返りで家に帰って(車で1時間くらいかかるのですが)お弁当を作って、また仕事に行ったことも1度や2度ではありません。授業参観の日は、それだけ出て、また職場に戻りました。
女性の産婦人科医の現実
そんな生活を30年近くやってきて、手術は独り立ちしてできるようになり、後輩の指導もして、部長にもなって、はた、と立ち止まって周囲を見たら、相変わらず女性医師は、私が医者になったころと同じ生活をしていました。当然、みんな辞めていきます。泣きながら辞めていく人がたくさんいました。そうでなければ、結婚しないか、しても離婚するか、子供がうまく育たず引きこもりになってしまったり、と散々な状態です。
私を含めて、ごく一部の運のいい人だけが生き残っておりました。これではいけない、と思って、平成16年ごろから女性医師がずっと働けるように、と思って、学会に働きかけたり、社会的に訴えたりしたこともあります。院内保育園を作ってほしいとも訴えました。
アンケートを取って、産婦人科医で仕事を始めて11年目の女性医師は、分娩を扱っている人は半分以下だという結果を出して、マスコミが取り上げてくれたりしました。その結果社会が動き、要求はある程度は実現しましたが、それでも根本的な状況はあまり変わっていないように思えます。
平成22年に総合周産期センターを立ち上げるまでは、都立病院を離れられずにいましたが、医師の待遇改善で東京都と相当激しくやり合ったためか、平成24年に移動を言われたのをきっかけに、東京都を辞めました。辞めて帰る日に、「ああ、空って青いんだな。」と思ったことを覚えています。それまでは、明るいうちに帰ったことがなかったので、空が青いのを忘れていたことに気が付きました。
それから、6年経ちます。この間は自分が何をやりたいのか、自問自答をしながら、本をたくさん読みました。今まで望んでも手に入らなかった暇ができたのです。私の答えが見つかったと思えたことがありました。
産婦人科医でよかった
先の大戦でのことです。8月15日に終戦になったにもかかわらず、満州ではソ連兵によって強姦、略奪、殺人など、相当悲惨な状況があったそうです。そんな中でのお話しですが、ソ連兵が、トラックにいかにも良家の奥様とお嬢様と見られる二人を乗せて連れて行こうとしていました。そうしたところ、見るからに売春婦だろう、と思われる3人が、トラックに飛び乗って、その二人を突き飛ばして逃がして、自分たちはソ連兵にしなを作り、媚びを売りながら身代わりになって連れていかれたそうなんです。そんな話があちこちにあったそうなんです。この話を読んで、私は泣きました。涙があふれて止まりませんでした。その後しばらくは、思い出しては泣いていました。こんな女性たちが私達の先輩であることが、どんなに誇らしいか。自分の身を投げ出して同胞を守ってくれる女性が、他のどこの世界にいるでしょう。その時につくづく思ったことは、「産婦人科医で良かった。」ということです。望まない妊娠をしても、性病にかかっても、治してあげられる、助けてあげられる、と強く思いました。
また、終戦の時に、アメリカ兵が日本に進駐するにあたり、一般の女性を守るために慰安所を作ったそうです。そこで働く女性を公募したそうなのですが、自分が楯になると、申し出てくれた女性がたくさんいて、すぐに必要な人数を集めることができたそうです。その慰安所は、性病が蔓延したので、ほどなく止めたそうですが、これは実話だそうです。
山崎朋子さんが書かれた「サンダカン八番娼館」という本の中では、天草などの九州地域から東南アジアへ体を売って出稼ぎに行く女性がたくさんいたことが書かれていますが、そういう方たちを「からゆきさん」という優しい名称で呼んでいて、地元の老人に話を聞こうとしたら「おなごの仕事じゃけん」と言っていて、そこには少しもさげすむような気持もなければ、そこから帰ってきた女性を侮蔑するような言い方でもなかったそうです。
私もテレビを見ていて、昔赤線地帯であったところの河をはさんで向かい側でお店をやっていた高齢の女性が、そちらで働いていた女性も大変だったんよ、と同情的に話をしていたのを見聞きして、少しもさげすみの気持ちのないことに感動しました。
神話でも、イザナミノミコト、とイザナギノミコトが出会った時に、出っ張ったところとひっこんだところを合わせましょう、という単純で明快な言葉で結婚を表現していて、これまた感動しました。そこには男女の上下の別もなければ、まったく対等の関係性であったことがわかります。まさに「原始女性は太陽であった」のだと思います。こんな素晴らしい神話を持つ国が世界のどこにあるでしょうか。これまた誇りだと思えました。天照大神は女性ですが、天孫降臨させて皇室の祖先とされております。日本の神話は、女性と男性が本当に対等です。
江戸時代とか明治時代に、日本に来た欧米人が書いた本を紹介している文章を読むと、そこには、子供を大事にいつくしんで育てている日本人の姿が描かれていて感動します。子供たちが泣いている声を聞いたことがない、とか(これはかなりの方が書いていて欧米と比較しています)、貧しいが、子供たちは丸々と肥えていて、清潔に保たれた衣服に身を包んで楽しそうに遊んでいる、とか、男も仕事が終わると子供を膝に乗せながら詰将棋をしたり、夕涼みをしている、とか、子供たちは大変お利口で、年長の子供の言うことをよく聞いている、とか、いつも楽しそうで幸せそうに遊んでいるとか。日本は子供の天国である、と言う表現もありました。私たちは、こんな祖先を持っているのです。本当に誇らしいです。
現代の日本の女性の現状
ひるがえって今を見ると、ジェンダーギャップ指数は100位以下で世界の先進国では最低です。女性や子供の貧困や、女性の地位の低さやDV,子供の虐待,など、どうしてもおかしいと思えることばかりが目につきます。
日本の女性の実力はこんなものではありません。能力も、もっともっと高いものがあります。ただ、本当にそれを発揮できない仕組みなのです。子供は一人では育てられません。し、育てるべきでもありません。男性が外で働き、女性は家にいて子供を育てるという現在規範と思われているスタイルは、むしろ、ごく最近、高度成長時代の一時期にあっただけといってもいいのです。密室で、孤独に子供を育てることほどつらいことはありません。でも、開かれた場所、空間で、みんなで育てれば、これほど楽しいことはありません。子供にとってもその方がどれほどいいかわかりません。
おそらく人間は共同で、子供を育ててきたのです。特に日本はそのような文化を持っていると言っていい。母親と子どもだけの空間はむしろ例外的だったと思います.
ウーマンリブ運動に力づけられたことは事実なのですが、その後何となくしっくり来なくて、ベティフリーダン(アメリカのリブの指導者的存在の人)は日本に来たそうですが、がっかりして怒って帰ってしまったそうです。そういう運動をしている方たちにも本物を感じず、スウェーデンの男女平等の取り組みも、素晴らしいとは思っても、何故かしっくりきませんでした。
それが、ソ連兵のトラックに乗って行った女性の話を読んだ時に、パズルの最後のピースがぴったりはまった、と思えたのです。日本には日本の文化があって、歴史があるわけで、世界のどの国を真似しても駄目なんだ、と言うことが、ようやく分かったのです。同胞を信じて一緒にやっていくこと、それが日本のやり方なんじゃないか、と思うのです。答えが見つかったわけではないですが、これから試行錯誤をするのでしょうが、きっと私たちが答えを出していけると思えます。
今回起こそうとしている事業は、産婦人科医療中心ではありますが、それだけを目指しているのではありません。安全に出産を終えること自体は、本当に大変なことでもあります。が、大きな基幹病院で、安全に産ませたらそれで終わり、としていたことは、実はその後が本当に大変なことだったのです。
自分の個人的経験ではそれを知っていたのに、そこまでの仕組みを作ろうとはしていませんでした。
これからの日本の女性へ
これからは、出産、子育て、その後、まで、女性の人生すべてにおいて、健康を保ちつつ、仕事もし、子育てもみんなで支え合って生きていくような、そんな社会を目指します。し、そんな仕組みを作っていこうと思っています。
この事業はまさに「ブルーオーシャン」です。「ほらね。こんな風にやれば楽しく生きていけるでしょう?」と目の前に提案したいのです。法律や条例、補助金は後からついてくるでしょうけど、とりあえずは自分たちでできる範囲のことは、自立してやって見せる必要があると思います。真似することは誰にでもできます。とりあえず男には頼らないで、自分たちでやりましょう。もちろん協力、支援は大歓迎です。
「いさぎよい」という言葉は英語にはないそうです。ソ連兵のトラックに乗って行った女性たちの、勇気、優しさ、いさぎよさ、をどれだけ誉めても誉め過ぎることはありません。そんな先輩を持ったことを誇りに思って、それほどまでにして守ってくれた私たちを信じて、生きて行きたいと思っています。
私は、今度開く産婦人科を中心とした医院を、ささやかですがプラットホームとして考えていて、ここから発信していきたいと思っています。目指すのは、若者が年頃になったら、恋をして、子供を産み育てることに不安がない社会です。女性は、母親になっても、自分の能力を発揮して、仕事をし、経済的にも自立して、自分の人生は子どもとは切り離して生きていけるような、そんな社会を作るきっかけにしていきたい、と思っています。
最後に、私が人や組織、団体を見るときに、本物かどうか見る尺度をお話ししたい、と思います。
- そのお金はどこから出ているのか。
- それをやることで誰が得をするのか。
- 口だけではないか。
です。もうひとつ付け加えるとしたら、 - それをやることで楽しそうか。
でしょうか。
本物のことをしていたら、大変だけど楽しいはずだ、と思います。
そうは言っても、経営の安定は大切です。が、みんなで力をあわせて働くことで、きっと地域の女性・こどもたちには支持され、頼ってもらえることと思います。
当院でできること、そしてスタッフのみなさんへ
今までの経験から、結果は数字に表れると思いますし、それはとりもなおさず職員全員の待遇改善になることだと思います。私自身は、お金儲けのために事業をするつもりはありません。目的を実現するためには、必要なお金は自分で稼ぐしかないだろう、と覚悟しているだけなのです。そのためには、職員の皆さまのご協力が絶対に必要です。
できる範囲で、経営の透明性は確保します。職員の方の待遇改善については、できる限り努力します。そうでなくても、医療者は過重労働になりがちですが、それを極力しないで、健康に留意しつつ働けるはずだと思います。
ご自分の守備範囲を守りつつ、周囲にも気を配っていただいて、できることにはチャレンジしてください。医療の質は確保しなければなりません。新しい医学の知識を取り入れることについては、支援をおしまないつもりです。学会にも研修会にもできるだけ参加していただいて、その知識をみんなに提供して共有すべく教えてください。
お昼休みをその研修時間に充てようと思います。できるだけ遅くなることは避けたいと思います。時間を効率的に使ってください。
そして、風通しのよい職場にしたい、と思います。上下左右の区別はありません。
ただ医療においては、業務としての命令系統はあります。が、それは患者さんの安全を確保するために必要なものですので、ご理解ください。産婦人科医療、特に産科は急変しますので、瞬時の判断が必要になります。そのための業務上の命令系統です。そういう場合には従ってください。最終的に誰が責任を取るのか、ということで決まっている、と私は理解しています。
意見があったら、どんどん言っていただいて構いませんが、それは文句や不平不満を言いっぱなしにするのではなく、あくまでも前向きで、建設的な意見であってほしい、と思います。実際にご自分で先頭に立ち、実現可能な意見であってほしい、と思います。そういう提案であれば、支持しますし、実現できるように応援します。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
平成30年5月7日
みなみ野グリーンゲイブルズクリニック
院長 桑江千鶴子